研究者業績

青木 崇

アオキ タカシ  (Takashi Aoki)

基本情報

所属
学習院大学 非常勤講師
京都芸術大学 非常勤講師
学位
博士(社会学)(2023年3月 一橋大学)

連絡先
taoki0046gmail.com
J-GLOBAL ID
202201020440383450
researchmap会員ID
R000033701

ハンナ・アーレントを中心に、現代の哲学・政治哲学・倫理学を研究しています。

これまではベンヤミンやハイデガー、フランス現代思想との関連でアーレントを論じることが多かったです。

80年代に形成されたまま現在まで間延びしている一部のアーレント解釈(labor/work/action、公/私の二元論、アイヒマン論やそれと結びつけられる思考論にばかり着目する解釈)に囚われず、90年代および2000年以降の国内外の研究を引き受けつつ、アーレントのテクストを読み直しています。

博士論文は「現われを気遣うーーハンナ・アーレントにおける生・政治・諸断片」というタイトルで書きました。

今後は、テクストを徹底的に読み直しつつも、アーレントの哲学・政治哲学を他の哲学や政治哲学との対話可能な場に開いていきたいと考えています。このことは、アーレントの哲学から距離をとりながら複数の哲学や哲学者たちとの間で哲学することにも繋がっていくはずです。

 

大きな関心としては次のとおりです(数字や文量は優先度を意味しません) 

① 現われと実在性(cf.「思考ーー現われの"reality"」『アーレント読本』)

 アーレントにおける「現われ」と「実在性」、ひいては「現われと存在は一致する」という一節をめぐる解釈的議論です。「現われと存在の一致」という一節にも拘らず、アーレントが60年代を中心に活躍した哲学者であったこと、『人間の条件』や『活動的生』でカントやハイデガーの〈哲学のスキャンダル〉がほぼ明示的に問題となっていることからしても、アーレントを素朴な実在論者として理解し、小難しい「哲学的」議論をなしで済ましておくことはもはやできないでしょう。確かに、実在論という「理論的」な議論はアーレントの十八番ではないかもしれませんが、しかし伝統的な「理論と実践」の二分法に争ったのもアーレントという哲学者でした。そうだとすれば、その実在論と政治哲学はどのように絡み合っているのか、そしてその実在論や政治哲学は、プラグマティズムを含め、ハイデガー以降の哲学や政治哲学に対して何を言うことができるのか。
 
この研究テーマについては現在、phil-pol研究会でハーバーマスの『真理と正当化』をハーバーマス研究者やハイデガー研究者らと読み進めながら協働で研究しています。

 

② 解体・系譜学・歴史哲学(cf. 「「真珠採り」の態度――ハイデガー・ベンヤミン・アーレント」『ハイデガー・フォーラム』、「生と世界の蝶番ーーハンナ・アーレントにおける「世界の保全」としての労働」『人文×社会』)。

アーレントの政治哲学は、とりわけ1990年代から(cf. Villa:1996, Benhabib:1996=2002)、ハイデガーの「解体」やベンヤミンの「歴史の天使」を批判的に引き継いだ歴史哲学として読み直されてきました(その背景には、モダン/ポストモダン論争の波があります)。アーレントは過去や歴史に対するハイデガーやベンヤミンや自らの態度を「真珠採り」(の態度)と呼んでいます。また、最晩年の著作『精神の生』では明示的に、ハイデガーの「解体」に連なるものであることを認めています。「我々がギリシアの初めから今日に至るまで見知ってきたような形而上学や哲学をそのカテゴリーともども解体することをしばらく前から試みてきた者たちの仲間に、私が属してきたことは明らかである」(LM.1: 212)。日本のアーレント研究ではこうした側面があまり注目されてこなかった(例外あり)のですが、海外では継続的にこのテーマの研究が進められています。
 ハイデガーやベンヤミンの歴史哲学とのより詳細な対比という課題のほかに、そのうちいくつか面白そうなトピックを挙げるならば、a. ガダマーの歴史哲学との対比(とりわけ伝統の断絶と連続性をめぐって)、b. アドルノらの歴史哲学との対比(cf. Arendt & Adorno)、c. ヘーゲルの歴史哲学との対比(とりわけ『革命論』におけるそれ)、d. ニーチェやフーコーの系譜学との対比。
 このなかでは最近の関心はd.にあります。90年代にアガンベンやデイナ・ヴィラがフーコーとアーレントを対比させてから、2000年以降、フーコー×アーレントというトピックの研究は断続的になされてきています。その中でもとりわけ興味深いのはアガンベンが示した路線でしょう。フーコーの生政治からゾーエーのビオス化や包摂的排除(排除的包摂)という議論を展開したアガンベンの発想は、他方では、アーレントが『人間の条件』や『活動的生』で「最高善としての生」(同書第44節の表題)やこの「公理」を原動力に駆動する近現代の政治を批判したことと繋がっています。アーレントにとっても「最高善としての生」とは、古代ギリシアにおいて善美に(ほとんど)与ることすらなかった「ゾーエー」(単なる生・生物学的な生)が唯一最高の生として「ビオス」(様式ある生、善美に関わる生)に成り果てた姿でした。ちなみに、こうしたアガンベンやアーレントの議論は、ヴァルター・ベンヤミンが「暴力批判論」で「生の神聖さというドグマの根源は、探求に値しよう」(浅井訳、276頁)と述べたことに端を発していると理解できるでしょう。そうだとすれば、アーレントは「生の神聖さというドグマ」「最高善としての生」という公理やそれによって駆動する近現代の政治をどのように批判し、またそれに抗うのかーーここでアーレントの系譜学的な態度が際立ってきます(それは、「活動的生」という語の歴史を辿ることで、伝統によっても近代によってもその内部で圧殺されてしまった生や営みについての無数の経験地平を蒐集しつつ思索するという同書の企てと表裏一体でもあります)。

 

③ 『革命論』と法哲学(cf. 「「言葉が肉となった」ーーベンヤミンとアーレントの暴力批判論」『一橋社会学』、「理論と実践とアーレント」【ワークショップ発表原稿】

 アーレントの『革命論』(『革命について』)におけるアメリカ独立革命論およびその憲法創設論は、討議倫理学的解釈(ハーバーマス自身はおそらく支持しない)とホーニッグによる解釈(デリダの憲法創設論と接近・対比させる解釈)という大きく2つの流れで従来は解釈されてきました。一方で、2000年以降、ジョディス・バトラーやペグ・バーミンガムらによってベンヤミンの「暴力批判論」との連関が論じられるようになります。リチャード・バーンスタインもまた、ベンヤミンの暴力論とアーレントの暴力論の連関を否定しはしますが『暴力』で両者を並べて論じています。拙論(「言葉が肉になった」)では、『革命論』のフランス革命論とアメリカ革命論がベンヤミンの暴力批判論ーー神話的暴力と神的暴力ーーの枠組みに裏打ちされているかを示すとともに、人為法そのものを拒否してしまいかねない「神的暴力」の問題にアーレントがどのように応答しているかを明らかにすることで、『革命論』の主題を新たに浮き彫りにしました(ベンヤミンの「歴史の天使」もここで再び登場します)。
 こうした議論の始点になっているのは、法措定の暴力(アーレント自身は「恣意性」と呼ぶことが"多い"です)をめぐる問題です。法措定の暴力については、ベンヤミンが神話的暴力論において、法維持にまで浸透する法措定的暴力として批判したこと、ひいてはデリダが『法の力ーー権威の神秘的起源』でこの問題を引き継いだことで有名です。ただし、『革命論』(とりわけその序文)を読み直すと、アーレントが法措定の暴力(恣意性)を引き継いだのは、ベンヤミンの暴力論から"だけ"でなく、近代の政治哲学(「自然状態」を想定する政治哲学ひいてはカントやヘーゲル)からでもある、ということが見えてきます。例えば、拙論のエピグラフに掲げたように、カントは『永遠平和論』のなかでルソーを批判しつつ明確に法的状態の開始の暴力について論じています。ルソーを活用したシエイエス(アーレントも言及する)や、それをさらに援用したカール・シュミットの議論とも地続きであることがわかってきます。アーレントがこうした問題系のなかを動いているということは、森一郎によるドイツ語版からの翻訳が公刊されたことで参照しやすくなった、『革命論』で用いられる様々な法哲学の用語を介して、さらに明確になってきます(この点を詳しく分析したのが 拙論「理論と実践とアーレント」【ワークショップ発表原稿】です)。
 以上のような議論は、デリダだけでなく、ハーバーマスやロールズの憲法創設論などとの間で新たな対話の場を開いていくと考えています。このトピックについては、ロールズが『政治的リベラリズム』において『革命について』の権威論に着目していることについての論文を準備中です。

 

④ 誕生の哲学・政治哲学(cf. 「赤子はどこへ生まれるか――可死性と出生性、ハイデガーとアーレント」

 従来、日本のアーレント研究では、アーレントの"natality"という概念をbirth(誕生)の同義語と理解しつつ「出生」と訳すことが一般的になっていましたが、海外の研究や森一郎の研究を参照しつつ、natalityは、birthと同義語ではない存在論的な概念として「出生性」と訳すべき語であることを明らかにしました(natality概念の解釈や訳語についてはこちらの一覧表も参照のこと)。natality概念そのものの解釈だけでなく、アーレントの誕生論や「出生性」論がフェミニズムからの様々な批判を含めどのような影響を及ぼし、どのような哲学を触発していったのか、政治的なものは誕生や出生性からどのように捉え直されうるのか、この点についても日本の研究は未だ薄いと言わざるをえず、詳細な研究が不可欠であると考えています。それは、アーレントのそれに限らない、〈誕生の哲学・政治哲学〉を形づくっていくはずです(〈誕生の哲学〉についてははまだ公表できませんが、あるプロジェクトが進行中です)。
    この論文でも触れましたが、アーレントの「出生性」論は広義の生政治論とも繋がっており、最近ではロベルト・エスポジトがアーレントの「出生性」論に着目しています。しばしば指摘されるように、「国家」や「国民」を意味するnationは、「生まれ」を意味するラテン語のnatioに由来しますが、この「生まれ」を捉え直すことから「nation」や政治的共同体を再考していくことが〈誕生の政治哲学〉の大きな構想です。

 

⑤ アーレントとフランス現代思想(cf. ②③④で挙げた拙論および「【研究ノート】ハンナ・アーレントと「政治的なものの退引」:アーレントを読むナンシーとラクー=ラバルト」『現代生命哲学研究』)。

 私のアーレント研究の特徴の一つは、フランス現代思想の哲学者たちのアーレント解釈を参照するという点にあります。いくつか例を挙げるとすれば、

・ポール・リクールがフランス語版『人間の条件』の序文として寄せた極めて美しい文章(合田正人訳『レクチュール――政治的なものをめぐって』に再収録)
・ジャン=リュック・ナンシーおよびフィリップ・ラクー=ラバルトが「政治的なものの退引」で示した哲学/政治(理論/実践)問題の批判的継承(柿並良佑訳が『現代思想』2016年9月号に収録)
・フランソワ・リオタールとラクー=ラバルトによるアーレントの判断論解釈と批判(大西雅一郎訳『近代人の模倣』に収録)
・リオタールによる「出生性」論解釈(小林康夫他訳『インファンス読解』に収録)

など、たくさんのアーレント解釈や批判があります。80年代のものが中心的ですが、80年代とは思えないほど、深く鋭い洞察が示されており、今後のアーレント研究にとっても有意義なものばかりです。また、デリダがいくつもの作品でアーレントに言及していることも注目に値します(今年中に一覧表のような仕方でまとめたいと思います)。
 私はこれまで以上のようなフランスの哲学者たちのアーレント解釈を様々に参照してきましたが、アーレント×フランス現代思想というかたちで主題的には扱ってきませんでした。今後はこの点も積極的に研究していきます。

 

⑥ パンデミックと政治哲学(2020年から「パンデミックの倫理研究会」で共同研究をしています)。

 2021年に「COVID-19パンデミックの倫理ーー公衆衛生、生政治、デジタル技術ーー」(杉本俊介・玉澤春史・青木崇)というワークショップを応用哲学会(2021/5/22)で行いました。私個人の業績としては、昨年まで博士論文の執筆で集中的に取り組めなかったため、現在はこのトピックで論文を書いています。いくつかの研究会で発表しつつブラッシュアップし、論文として公開していくつもりです。

 


論文

 9

書籍等出版物

 1
  • 日本アーレント研究会
    法政大学出版局 2020年7月 (ISBN: 9784588151095)

講演・口頭発表等

 2

教育業績(担当経験のある科目)

 3