研究者業績

田上 竜也

タガミ タツヤ  (Tatsuya Tagami)

基本情報

所属
学習院大学 文学部フランス語圏文化学科 教授
学位
文学博士(パリ12大学)

J-GLOBAL ID
200901074482637835
researchmap会員ID
5000069385

経歴

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論文

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MISC

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  • 田上 竜也
    Intelligence de la complexite, colloque de Cerisy 393-397 2007年  
  • 田上 竜也
    慶應義塾大学日吉紀要フランス語フランス文学 (44) 49-65 2007年  
  • 田上 竜也
    慶應義塾大学商学部創立五十周年記念日吉論文集 203-213 2007年  
  • TAGAMI TATSUYA
    Intelligence de la complexite, colloque de Cerisy 393-397 2007年  
  • 田上 竜也
    慶應義塾大学日吉紀要フランス語フランス文学 42(42) 81-95 2006年  
    以下に訳出するのは、ポール・ヴァレリーの未完草稿『ストラトニケー』の一部である。企図としては1922年頃に始まり、1930年から35年にかけて精力的に執筆され、さらに生涯書き継がれたこの作品草稿は、フランス国立図書館に収められ(Naf 19034 ff.76–302)全体で200葉以上の紙片からなる、ヴァレリー未完作品のなかでも大規模なものである。もとよりここでそのすべてを紹介することは不可能であり、また草稿全体を見通した詳細な分析も別の稿に委ねることとして、ここではユゲット・ロランティによって活字化された部分のなかから、対話下書き草稿を主として抄訳した。 作品の構想については既にいくつかの先行研究によってあきらかにされているが、主題はアングルによる、シャンティイおよびモンペリエ美術館にある絵画から触発されたものであり、その原作はプルタルコスの『対比列伝』(「デメトリオス」)に遡る。話の筋は主要な4名の登場人物、すなわちシリア王セレウコス(『カイエ』の構想ノート(C, XX, 714)によれば53歳)、王妃ストラトニケー(マケドニア王デメトリオスの娘。同15歳)、王子アンティオコス(1世ソーテール。同18歳)、 および医者エラシストラトス(同40歳)を軸に展開され、その中心となるのは王子の、年若い義母である王妃への道ならぬ恋と、それを知った王から王子への、王妃の譲渡である。 全体はプロローグおよび3幕(あるいはそれにエピローグを加えた)構成からなり、その内容は次のとおりである。まずプロローグでは門番の道化的な語りによる状況説明。第1幕では、王と王妃との会話。王は王妃に、原因不明の病床にある王子の自殺を阻むべく剣を盗むことを命じる。王と医者との対話。第2 幕では、剣がないことに気付いた王子の怒り。王子の病の原因を突きとめるよう命じられた医者による診察。肉体的な病気との最初の診断と王への報告。再び患者のもとに戻った医者の眼前を王妃が通り過ぎる。病の原因の発見。第3幕では医者の独白と王への報告。王の怒りと王子への殺意。王の独白につづく最後の決断。大団円となる登場人物による「4重唱」。 主要な登場人物4名のうち、老いや死の恐怖、愛の蹉跌に苦悩する王セレウコス(草稿では王妃との肉体的非交渉が想定されている)に作者ヴァレリーのもっとも直接的な投影を見出すのは容易だろう。カトリーヌ・ポッジィやルネ・ヴォーティェとの恋愛体験に由来するエロスの隘路や、現実的存在、時間内存在である自己を目の当たりにすることによる苦悩という主題は、この作品と、やはりエロスの惑乱から産まれた『天使』とを引き寄せるものである。けれども、王セレウコスのみがヴァレリーの分身であると考えるのは短絡にすぎよう。この作品もヴァレリーのそのほかの対話篇と同じく、ひとつの精神において営まれる内的対話を外在化したものであり、精神が保持する多様性を関係性のうちに表現したものといえるからである。その意味で4者はいずれも作者の反映というべき存在であり、相似的ないし相補的関係をなしながら生の全体を表現している。実際この4者は、老い、叡智(セレウコス)に対する若さ、行動力(アンティオコス)、知性、饒舌(エラシストラトス)に対する身体、寡黙(ストラトニケー)……という対称性のうちに配置されている。息子に対する情愛のうちに妻への愛を断念する王は、王子のうちに「別なる自己」を認めており、両者は「他」にして「同一」という明快なナルシス的鏡像関係を形成する。また一貫して受身な存在である王妃ストラトニケーにしても、現実的女性というよりもパルクやアティクテの造形を受け継ぐ、内的女性性の化身にほかならない。対称性にさらに着目するなら、王と王子の双方から愛される王妃のみならず、両者の対話相手となる医者エラシストラトスも同様に関係のなかで蝶番的な役割を担っており、彼は劇の演じ手かつ観察者として、生命の神秘や身体と精神との葛藤を代弁する語り手である。人物たちのそうした形式的配置が、生の循環を象徴する黄昏から夜明けにかけての時間軸に沿って、筋を展開させていく。 この作品はオリエント̶ギリシャ趣味による音楽劇として構想され、『アンフィオン 』や『 セミラミス』といった劇作の系列に属するが、 精神と身体、「檻のなかの鼠」によって象徴される苦悩の回帰などはエロス体験を直接の契機とし、対話篇『神的ナル事柄ニツイテ』と多くの共通点を持つ。最終的に『我がファウスト』に流れ込んでいく主題系を理解するうえで、欠くことのできない作品草稿といえるだろう。
  • 田上 竜也
    Paul Valery 12 209-216 2006年  
  • TAGAMI TATSUYA
    Paul Valery 12 209-216 2006年  
  • 田上 竜也
    未完のヴァレリー (ポール・ヴァレリー著) 東京 平凡社 123-182 2004年  
  • 田上 竜也
    Forschungen zu Paul Valery 17 77-125 2004年  
  • TAGAMI TATSUYA
    Forschungen zu Paul Valery 17 77-125 2004年  
  • 田上 竜也
    慶應義塾大学日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション (28) 57-70 2002年  
    さまざまな修辞のなかでも,とりわけ隠喩が言語芸術において特権的な役割を担っていることは論を俟たないだろう。マルセル・プルーストやシュルレアリストは言うに及ばず,20世紀フランス文学においても多くの作家が隠喩を戦略的に用いている。ポール・ヴァレリーPaul Valery(1871-1945)も例外ではなく,隠喩を意識的,自覚的に考察,実践した作家のひとりである。彼のテクストは様々な隠喩的表現に溢れており,彼の詩作品における隠喩の使用に関しては既にいくつもの研究がなされている。けれどもここで留意すべきは,ヴァレリーにとって隠喩が関わるのは,必ずしも言語領域に留まらない,という点である。あるいは言葉を補えば,それは言語に類似した知的作業全般に関係する行為といえる。例えば彼は『カイエ』にこう書く。 "隠喩"[...]これらの表象,これらの連絡は,言語でないにしても,少なくとも意味的連続一あるいは意味的総体を必要とする。(Cint., IV,50)ここで述べられているように,ヴァレリーにとって隠喩とは複数の事象を意味的地平において結びつけるものである。以下ではさらに一歩を進めて彼による隠喩の定義づけを検討していくが,何よりそれは抽象化の働きと大きな繋がりを持つように思われる。
  • 田上 竜也
    慶應義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (34) 3-20 2002年  
  • 田上 竜也
    慶應義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (35) 18-31 2002年  
    ポール・ヴァレリーにとってナルシスの形象は生涯にわたり特権的な価値を帯びていた。その口切りといえるのは、若年期を過ごしたモンペリエの植物園に葬られる少女ナルキッサの伝説に喚起され、その墓碑銘をエピグラフに記した1891年初出の詩篇『ナルシス語る』である 一[...]どんなに私は嘆くことか、お前の宿命的で純粋な輝きをかくも柔らかく私に抱きかかえられた泉よ私の眼はその死の紺碧のなかに汲んだのだ濡れそぼれた花々の冠を頂いた自らの像を[_】((E,1,82)(1)rエロディアード』に強く触発されたこの詩には、しかしながらマラルメの詩における意識の微細な動きを映し出す意図や、詩句の純化された緊張感は希薄であると言わざるを得ない。夕暮れの月光に照らされる泉、百合や薔薇、ミルトといった花々、サファイアや水晶に形容される水面、ニンフの群れといった光景は、世紀末の意匠として目新しいものではなく、若書きの陳腐な道具立ての域を越えていないとすら言える。けれどもナルシスのモチーフはそうした通俗の次元にとどまらず、その後ヴァレリーのなかで独自の展開を遂げ、さまざまな意味を担っていくことになる。この稿では自意識の構造を示すモデルとしてのナルシス問題系の変遷を、主として1920年前後の著作に焦点を当てつつ辿ることにする。
  • 田上 竜也
    慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (34) 3-20 2002年  
    Valéry et Kant:ce rapprochement peut susciter aujourd'hui encoreune impression fortement négative. Représentant les philosophes, Kantétait continûtment en butte aux critiques implacables de Valéry, commeon peut le constater dans les Cahiers ou dans des oeuvres telles queLéonard et les philosophes. Pourtant,bien des textes montrent aussi queValéry se confronta à la pensée kantienne avec une grande estime. Sesconnaissances sur la philosophie transcendantale sont, certes, loin d'êtreprécises, et fourmillent de méprises trop faciles. Valéry avoue en effetvers la fin de sa vie:«J'ai peu lu de Kant ça et là, dans une vieille etmauvaise traduction, des pages de la Crit[ique] de la Raison pure» (C,XXVI,783)。 Mais nul doute que ce livre, bien que lu de façon libre,étaitcher à Valéry dès la première approche vers 1900. Les Cahiers de cetteépoque (Carnet R/122 BIS, C. int., II ; Dictée à Jeannae, C. int., III)comportent de nombreuses analyses sur la première Critique, ettémoignent d'une lecture attentive de la traduction de Tissot. Le nom de Kant figure dans la liste, notée vers 1891, des philosopheset des savants que Valéry ne connaissait pas (NA,I, fo 222). Mais dès lesannées 1890, quelques notes sur Kant jalonnent les Cahiers et les manu-scrits, et apportent des preuves des contacts qui eurent lieu par plusieursbiais. Il y aura eu, par exemple,l'initiation par Eugène Kolbassine,fournissant â Valéry des connaissances de la pensée mathématique deKant. Deux philosophes semblent encore importants, si l'on veut compren-dre les biais par lesquels Valéry aborda le kantisme. Friedrich Lange,toutd'abord, avec son Histoire du matérialisme. La lettre à Gide du 27novembre 1893 atteste la lecture de ce livre par Valéry. Ce philosophepostkantien développe, après Helmholtz, une théorie matérialistekantienne, s'appuyant sur la psychologie physiologique et le déterminismedes phénomènes. Hoëne Wronski, que Valéry découvrit avant Lange, et sur lequel illaissa quelques notes de lecture, fut une autre approche de la pensée deKant par Valéry. Wronski reproche à Kant et aux postkantiens, d'avoirintroduit une distinction fondamentale entre le savoir et la Chose en soi.Ce philosophe mystique propose de dépasser la connaissance limitée auxphénomènes, et d'atteindre par l'intuition de l'Absolu l'unité de la réalité. En outre, il conviendrait de tenir compte de la direction générale ducourant d'idées de l'époque. Après l'effondrement de l'idéalisme spéculatifallemand, la philosophie s'imposait une attitude rigoureusementantispéculative et renouait avec Kant, en se jetant dans le criticisme.Presque l'ensemble de la philosophie de la seconde moitiédu XIXe siècles'imprégnait de cette tendance du retour à Kant, que ce soit par l'inter-médiaire de Schopenhauer ou à travers les nombreuses écoles néokantien-nes qui se formèrent autour de 1870. Portant une attention particulière àla méthode psychologique, ce nouveau mouvement philosophique donnalieu à l'éclosion d'une psychologie expérimentale revendiquant son statutlégal dans le monde scientifique, au même titre que la physique naturelle.C'est ainsi que la psychologie empirique, née en Allemagne, connut unsuccès croissant, et exerça vers la fin du XIXe siècle une grande influencesur la psychologie physiologique en France. En retenant ces approches directes et indirectes, nous nous proposonsici d'examiner les réflexions que Valéry lui-même laissa dans ses écrits;après avoir rappelé, dans leurs grandes lignes, les appréciations et surtoutles reproches que Valéry adressa à Kant,à propos de la première Critique,nous essayerons de comprendre jusqu'à quel point le kantisme interférasur le Systéme valéryen.
  • 田上 竜也
    慶應義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (32) 1-22 2001年  
  • 田上 竜也
    慶應義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (33) 1-14 2001年  
    上に掲げた「序説」という表題は、この小論のいわば射程の短さを示すものである。というのも、ヴァレリーにおける「空間」の問題を扱うにあたり、詩人としての、あるいは詩以外の文学的テクストの作者としてのヴァレリーの想像界へと話を展開していくことは、あまりに論点を拡散しすぎてしまう恐れがあるからである。ここでは、もっぱら理論面からヴァレリーの空間に関する思索を分析し、とりわけヴァレリーの思想と、彼が生きた当時の数学的、科学的思潮との関連という点に話を絞って進めていくことにする。それが、この論を序説と題する所以である。 本稿ではヴァレリーの『カイエ』における空間論を中心に考察していくが、その前に、19世紀から20世紀への転換点において、空間を巡る論議が、物理学的、数学的、哲学的、科学認識論的な領域にわたる中心問題であったことを強調しておく必要があると思われる。ごく大雑把に言って、19世紀以前、空間の概念は、数学的対象としても、物理的現実としても、素朴な形でユークリッド空間に結びつけられていた。すなわち、ユークリッド幾何学においては、空間概念を、論理的明証性と現実的かつイデアルな秩序を担った定義と公理の体系と見なしていた。また物理的空間は、知覚に基づく現実空間およびユークリッド空間と同一視されていた。周知のように、ニュートン物理学とカント哲学はユークリッド幾何学を具現するものだが、前者において空間は、物質がその中で自由に動きまわることのでき、またその内に幾何学図形を構築することができる、空虚な受容体としての絶対空間であり、後者は、空間概念の根拠を認識主体の側に引きつけたうえで、それをア・プリオリな感性の形式と定義づけるものであった。19世紀において、こうした空間観への疑義が呈されるようになったのは、言うまでもなくガウスやロバチェフスキーらによる非ユークリッド幾何学の発見に依るものである。19世紀末という時代は、一方にはア・プリオリの純粋直観というカント的空間論、他方には双曲線幾何、楕円幾何といった複数の幾何学、さらにそれに伴う複数の空間の存在を認める新しい空間論とが、哲学的、科学認識論的地平において対立していた時代と言うことができる。 このような時代状況下、ヴァレリーはその空間論の出発点において、ポワンカレの1895年の論文「空間と幾何学」2に大きな影響を被っている。論中ポワンカレは、空間を現実空間、すなわち視覚、触覚、運動感覚によって構成される知覚表象の空間と、幾何学空間(この場合ユークリッド空間)との2種類に大別している。このポワンカレの論を受けて書かれたごく初期の『カイエ』にはこう記される。「ポワンカレは、彼によれぽ連続的で、無限で、3次元で、同質的、同方向的な幾何学空間を、(視覚、運動等の)空間ないし表象空間と区別する。彼はおそらくこれらの空間が思考のなかで混ざり合っていることを忘れている。[_]彼が実に正当に指摘したように、表象空間については、それが3次元を持つとは言えない。表象空間は独立した神経網が与>xるだけの、すなわち独立変数の数だけの次元を持つ。」(C.int.,I,215)ヴァレリーはここで言及される2種類の空間、すなわち現実(表象)空間と幾何学空間の他に、さらに想像空間、つまり心像によって作られる空間の存在を主張し、それら3種類の空間が意識のなかで混在していると考える。初期『カイエ』における探究の大きな柱のひとつは、心像の連鎖の観察と操作を通じて、この想像空間の性格を明らかにすることにほかならない。「イメージの幾何学」と名づけられた一連の考察のなかで彼は、想像空間の特質を、現実空間、幾何学空間との比較から明らかにしようと試み、とりわけ、想像空間にどれだけ幾何学的法則を適用することができるか、という点を問題にしている。そうした試みのなかで、ヴァレリーは抽象的でイデァルなユークリッド幾何学空間と、感覚の多様さに応じて複数の次元を持つ現実空間、平面的で絶えず大きさの変化する想像空間を対立させている。以下では、現実、幾何学、想像空間という3分法に基づく枠組みを念頭にいれた上で、ヴァレリーにおける幾何学的認識および空間の起源と性格、さらに心的空間の表象と幾何学モデルとの関係について検討する。
  • TAGAMI TATSUYA
    (32) 1-22 2001年  
  • 田上 竜也
    パリ第12大学 博士論文 2000年  
  • TAGAMI TATSUYA
    パリ第12大学 博士論文 2000年  
  • 田上 竜也
    仏語仏文学研究 (11) 63-74 1994年  

講演・口頭発表等

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